虚構はしょせん虚構に過ぎない。だが虚構を求める人々の心は「真実」だ
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「今」と「昔」の記事比べ (2004.08.25 Wednesday) [いんちき心理学講義]
 ●「最先端と流行=悪玉説」
 人間というものは常に悪役を作り出したがる性質があります。その中で教授がもっとも強いと思っている悪玉説が「今はダメだ!昔はよかった」や「あんなものが流行するなんてけしからん!」という二つの説です。
 まあ、しかし「今の若者は〜」みたいなのは古代エジプトからあったわけで、恐らく人類が発祥してすぐに存在したのでしょう。もしかすると、大昔は「人間はダメだ。サルを見習え」とか言っていたのかもしれません。

 ▼現実と虚構の混同
 ファミコンが大流行してからは、悪の代表作としてゲームが槍玉が挙げられることが多くなりました。この手の人は必ず判を押したように「現実と虚構を混同する」と主張します。少しはオリジナリティのある説を唱える人がいれば面白いと思うのですが。
 例えば、ファミコンはサタンが作った機械であるとか。ああ、これじゃただの電波さんですね。

 そもそも、娯楽には必ず想像性の余地があるので、現実と虚構の混同説はどんなものに対しても唱えられます。
 小説だって映画だって歌舞伎だって全て虚構が潜んでいますし、現実にあった英雄譚ですら「自分も同じようなことができると勘違いして、悪人に立ち向かって殺される」ことだってあるわけですから。
 ただ単に、現在はゲームに人気があるために槍玉に挙げられているわけです。
 実際、「現実と虚構の混同説」なんて最近出てきたものでも何でもなくて、ファミコンが発売される前から唱えられていました。
 情報化された大衆社会において人はマス・メディアの発達と個人の内部への透過力の増大の結果、現実社会に対する、マス・メディアによって作られる準環境の比重が高まり、人は狭義の分裂病でなくとも現実と虚像との境界を喪失する。

 たとえば歌手その他の芸能人に憧れ、ついには相手またはその家族を殺害する等の非行を行ったいわば非行性ファンの少年たちは、現実の対人関係に挫折しやすく、その代償を(中略)芸能人との出会いに求めるのであるが、こういう少年たちにおいては、その空想性、非現実性のために、間接に、マス・メディアを通じて接しうる世界と、現実の生活圏内の社会との境界を短絡的にのりこえられてしまうのである。

 社会体制と精神障害 1971年
 ちょっと前に流行した話で「死んだカブトムシの電池交換をせがむ子ども」というのがあります。
 これは「自然を知らない子ども」や「ゲームによって死を理解しなくなった子ども」を象徴する話として語られ続けていますが、実はこれ20年以上前から続いている都市伝説です。確認はできなかったのですが、当時は電池ではなく「ゼンマイを交換して欲しい」という別バージョンもあったそうです。

 ゲームのさらに前の槍玉はテレビ番組でした。当時はファミコンもなく、漫画もマイナーな存在で親からは目の敵にされるものの、社会的にはほとんど知られていなかったのです。これがさらに昔になると読書が悪玉でした。

 現在のゲームを遥かに超える娯楽が出現して、「ゲームという物語の登場人物と一心同体になり、知性を磨いたり感受性を高めることのできる素晴らしい娯楽が廃れてきた」という記事が新聞に載る日が楽しみです。

 ▼ワープロの精神
 コギャル語なんていうのが一昔前に流行りました。「チョベリバ」「チョーMM(マジムカツク)」まではギリギリ分かりますが、「チョベリガンブロン」とまで進化するとさすがに意味不明です。
 まあ、さすがにコギャル語は極端ですが、基本的に言語というものは移り変わるものです。そして、移り変わるということは当然「昔は素晴らしく今はダメ」の方程式が採用されることとなります。

 日本の場合、戦前から戦後に移り変わる時に旧仮名遣いから新仮名遣いに改められました。もちろん、当時の戦後すぐの大人たちは、幼少期に旧仮名遣いを習っていたので新仮名遣いが気に入りません。「新仮名遣いなどチャラチャラしていかん!」というわけです。
 教授からすれば、いくら心がこもっていても旧仮名遣いはかなり読みにくいのでもらいたくないのですが、読めない習字の文字を「達筆ですね」と誉めるようなものだという解釈でいいのでしょうか。

 時代が移り変わり、今の大人たちは新仮名遣いで教育を受けたので、新仮名遣いは槍玉に挙げられなくなりましたが、代わりに攻撃されたのがワープロです。「ワープロで書いた文章は心がこもっていない」のです。

 しかし、そんなワープロも最近は廉価になったパソコンの普及によりシェアがドンドン失われてしまいました。先ほど述べた、「昔は素晴らしく今はダメ理論」はここでも適用されます。昨年、ワープロ代表作の一つ「書院」という機種が出荷停止されたとき、今までの掌を変えたような報道が行われたそうです。
 2003年、シャープがワープロ「書院」を出荷停止にしたとのこと。新聞にはごく短く、日本のものづくりの象徴が又一つ消えたという風にまとめていた。

 大人の科学研究室
 ワープロがものづくりの精神を象徴していたというのは始めて聞きました。新聞は「ワープロの文章は心がこもっていない!」と責め続けるものだと思っていましたが、勘違いでしたね。将来携帯電話が新しい媒介に取って代わられる時代が来ると、携帯電話は素晴らしいコミュニケーションツールになると予想されます。

 ▼少女雑誌にセックスが氾濫
 少女小説の世界がガラリかわった。いつのまにかセックスが氾濫して、吉田二郎らが築きあげた『星よ、スミレよ』の世界は全く消滅した」
 少し前に児童ポルノ禁止法が話題になりましたが、最近の漫画や小説では性的な表現が堂々とされています。実に嘆かわしいことだとは思いませんか?
 本来、少年・少女雑誌は男の子には胸をわくわくさせる物語を。女の子には感受性を高めるための感動的な物語を用意するべきです。
 しかし、最近の雑誌では性行為をほのめかす漫画や記事も増え、明らかに子どもたちに悪影響を及ぼすことでしょう。これだから最近の若者は堂々と、不純異性交遊に及んだりするのです。上記の朝日新聞に掲載された記者の憤りも実に共感できます。

 おっと、ごめんなさい。うっかり上の新聞記事の日付を書くのを忘れていました。
 少女小説の世界がガラリかわった。いつのまにかセックスが氾濫して、吉田二郎らが築きあげた『星よ、スミレよ』の世界は全く消滅した」

 朝日新聞 昭和45年1月21日
 35年以上前の記事ですけど、細かいことは気にしてはいけません。

 ▼ヘンな筆箱はダメです!

 どんな名前だったかは覚えてないんですけど、教授が小学生だった時すごろくが付いた筆箱が流行していました。どんな筆箱が流行するかは時代や地域によって大幅に異なると思うのですが、小学校歴史の中で大ベストセラーになったのが昭和40年代に発売された「ロック式筆箱」です。
 ロック式筆箱とは、その名の通りカギをかけることのできる筆箱で最盛期で400万個も売れたそうです。もちろんカギ付きということはカギを無くす子どもも大量に出てくるわけで、スペアキーの注文も殺到します。

 そんな感じで大流行したロック式つき筆箱ですが、「流行=悪」の方程式は当然ここにも及びました。
 「暮らしの手帖」誌は「カギつき筆箱を売らない百貨店の見識」とする記事を掲げ、「教室で使うものに、幼稚な子どもの気を散らせるようなものをつけるのはまずいのではないか、そういう商品は子どもを食い物にするものではないか」と糾弾している。そして「ロック式筆入れは扱っていません」と貼り紙を出した新宿の伊勢丹百貨店の姿勢を「数あるデパートの中で伊勢丹がとにかくヘンな筆箱を売らないときめたのは大変いいことである」と、評価している。
 だが、これは良識ある大人の倫理であって、子どもの楽しみをはなから無視している。「わかってないなあ」という気持ちになる。同誌はアクセサリがたくさんついた学習机も「子どもを食い物にする禿鷹商品」だと非難したこともある。子どもの商品を評価する大人たちは一世代前の旧感覚のままなので、新しいモノに理解が及ばないのではないか。

 まぼろし小学校
 たかがカギ付き筆箱程度で気が散るような授業の方に問題があると思うのですが・・・。

 昔は今よりもずっと娯楽が少なかったのですが、娯楽が多い少ないはあくまでも相対的な問題です。江戸時代の殿様は今の私たちよりもずっと貧しい食生活でしたが、当時としては非常に贅沢な物を食べていたわけです。
 ですので、昔は娯楽が少ないから槍玉に挙げられるものはないだろうと考えるのは間違いです。物事はみんな相対的な問題である以上、どの時代でも常に流行=悪の方程式が成立します。


・「現実と虚構の混同」はファミコン以前の説です。
・ワープロはものづくりの精神の象徴でした。
・30年以上前から少女雑誌は大変です。
・最先端=悪の方程式はどんな時代でも成立します。


参考文献
テレビゲームと癒し
大人の科学研究室
まぼろし小学校
朝日新聞
論文:社会体制と精神傷害
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